恥という文化

 

違うことは恥である事を教えることで、日本というコミュニティにおける標準を教えることに通じる。

つまりは常識を知るということ。

常識を知ることはコミュニティにおける共感を生み出し、それはわかり合えるという安心を生む。

違う事が恥であるということをまず共有しておくことは没個性でも何でもなく、まずは標準を知るという事、他人と自分の同一性をまずは知るってことはそんなに悪くない事だと思う。

分別がつくようになって常識は常識として、その上で他者との違いを感じ、分化していくことが日本人の個性の出し方なんだと思う。

ただ、今の教育においては分別がつく頃合いにおいてまで、周りと合わせろ、となってしまっているのは確かに問題で、周りと合わせろってのは小学生か、せいぜい中学生までで充分だろう。

ただ、他者の為に生きる、他者の為に行動をするという事が日本人の血脈に流れていると思うので、それを活性化させることを教育に入れ込むことで、異物を排除してしまうような社会から、異なる考えの者を内包できる社会への変革につながるのかな。

ただ、異なる考えや文化の他者を内包するにも「郷に入っては郷に従う」為の常識を身につけてもらう事はやはり必要で、それにはやっぱり、違うことは恥であるという感覚は身につける必要があると思う。

模倣して、模倣して、それでも模倣しきれない所にこそ個性は潜んでいるのだと、これは弘法大師の書の模写をしていた著名な書道家が言ってた言葉だけど、とても腑に落ちたので今では良いと思った事はできるだけ真似る様に心がけている。

それでも真似る事ができない部分や、似せるための人それぞれの工夫が個性につながっていくのだと思う。