悩むということ。考えるということ。

経営者を生業としていると、物事を悩んで考えて決定することが幾度となく巡ってくる。

思索を巡らせて、思案を重ねて、迷いに迷って決断することも多くある。

「決める」ってことは何かを「捨てる」ことだ。

「断つ」ものを「決める」のだ。

未来の最適解を目指して、思考の迷路に迷い込む。

ただ、悩んでいる時には思考が堂々巡りする事もまたしかり。

そして、直感で決断することと大差の無いことも往々にしてある。

「考える」ことは意外と難しく、ただ思い悩んでいることの方がずっと頻繁である。

思い悩むのは心配しているだけで、それをすることによって生じるメリットやデメリットを詳細に分析したりしていることは少ない。

案ずるより産むが易し、とばかりに思い切って行動できれば良いが、リスクの伴う決断には及び腰になってしまう。

となれば、やはり「悩む」のでは無く「考える」力を身につけねばならない。

しかし、「考える」って何だろう。

ゆとり教育の昨今では個性を育てるために「考える」力を養い、つめこみは止めようなんてお題目が掲げられていた。

だけど、「考える」ためには、判断をするための材料が必要である。

その材料ってのは自らが蓄えた知識や見識、経験に基づくものに他ならない。

歴史を研究するのは、明日をよりよい社会にするために、同じ轍を踏まぬようにするためなのだから。

ただ、知識や見識を広げようとする時には正しい認識が必要となる。

例えるなら隣国が問題化しているいわゆる従軍慰安婦問題などは、隣国国民の教育が歪曲されているため、正しさを主張しても、判断材料となる知識は捻じ曲げられているため、彼らが日本の主張を受け入れる余地は無いだろう。

そして、我が国でも同じく、朝日新聞をはじめとする大マスコミの見解は韓国・中国に阿っているため、やはり判断材料とする知識としては不適切である。

じゃぁ、不適切であると判断するには、様々な文献等をあたり知識を深める他ない。

つまりは仕事でも同じく両論様々な意見や主張、経験則を拾い集める他はない。

しかも、その時代背景や状況が異なれば自ずと答えは変わるし、その判断をするための経験は絶対に必要なのだろう。

なんやかんやずらーっと思い悩んだ結果、失敗を糧にしつつ、その失敗が致命傷になることを避けられるよう最大限の努力を重ね、成長するための情報収集を怠ること無かれって結論なのだろう。

思い悩む今、まだまだ考えるための寄る辺が足りぬ皐月朔。